「希望と平和の種」としての芸術
流行り病も落ち着かない中、隣国で戦争が始まったようです。
世界の情勢を見ていると決して他人事とは思えず、まさに「明日は我が身」のような感覚でニュースを見ております。
痛々しい映像や生々しい話題がネットでも多く見受けられるようになってきた中で、それでも私は画廊のバックヤードに今いて、近々開催予定の展覧会の準備などを進めております。
こういう時「自分のしていることは何なのだろう」と考えてしまいます。
私には聞こえないだけでどこかで爆発音も悲鳴も上がっていることは事実で、私が健康なだけでどこかで病や怪我に苦しんでいる人がいることも事実です。
そういう直接的に見えない悲惨な現実の隣で、それでも絵を売る仕事を選んでいる私は何なのだろう…そういう思いがぐるぐると最近回っておりました。
戦争やパンデミックの状況において、それらを直に解決できる力が求められた時に紛れもなく芸術は無力です。
一枚の絵というのは戦争で壊された建物の瓦礫ひとつ拾うこともできないし、病気で苦しむ子どもの頭をなでてあげることもできません。
芸術はこれらの問題に対して直接的な解決に導く力を持っていないこと、悔しくてもこれはまず認めなければならない事実でしょう。
この事実だけを見て「芸術は不要だ」と言う人が現れるのも正直不思議ではないかなと思います。
ですが私は絶対に芸術は不要なものだとは考えられません。
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暴力と芸術には一点似たような面があるように思います。
それは他者への訴えかけを言葉によらない方法で行う点です。
ですがそのアプローチは全く逆だと思います。
暴力は外側から相手の形を無理やり変えていく節がありますが、芸術は内側から相手の形を無理のない範囲で変えていくことができます。
それはちょうど寓話の「北風と太陽」のようなイメージです。
このことに気づいたときに、私は芸術とは暴力的な問題解決手段とは真逆に位置するものなのではないかと思いました。
戦争の反対は平和と言いますが、戦争行為の反対は芸術表現にと言える可能性を見た気持ちでした。
美術でも音楽でも、それによる表現を見聴きして感動するとき、それは自分ではない他者の中にある世界に心動かされることになります。
そのことはイコールで「自分とは異なる存在」から感動を与えられたこととなり、他人が自分に楽しみや幸福を与えてくれることがある事実を確認することに他なりません。
その事実を確認することとは、「異なること」が必ずしも悪ではないことを知るきっかけになります。
そのきっかけが大きく育っていけば異文化や異人種、考え方が異なる人たちのことを簡単に「敵」と見做せなくなるのではないでしょうか。
戦争という事象はたくさんの複雑な事情が絡まり合って勃発することが多いですが、その絡まりの根幹を見てみると「異なること」が許せない思想がそこにはあると思います。
許せない、というか「異なること」は怖いことなのかもしれません。
自分とは違うことで相手が何を考えているのか、どんな行動に移るのか、もしかしたらそれは自分の生命を脅かすことにつながるかもしれない…そういう「生物」としての危機感が働くのかもしれません。
「異なること」への恐怖は突き詰めると生物として本能的に身を守ることから出ているのかもしれませんね。
そういう風に考えると、芸術表現で感動するということは「異なること」への本能的な恐怖感を超えたところにあるとても崇高なことなのではないでしょうか。
私はここに「人間」と他の「動物」との違いを見ます。
本能的な恐怖を克服し異なる存在を受け入れられるようになること、これはとても文化的で平和的な思想行為だと思うのです。
繰り返しになりますが、芸術は無力です。
直接的に事態を劇的に変える力はありません。
ですが、そこには希望と平和の種があると思います。
そして人生の中で一度でも、自分ではない他の誰かの表現に感動したことがある人の心にはその種を育てることができる土壌があると思います。
発芽や開花にはとても時間がかかるかもしれません。
しかし人が「動物」ではなく「人間」として生きるのであれば、その種は絶対に無くしてはならないものと私は思います。
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今現在、様々な厄災に見舞われている方々にこんなことを言ってもまさに「無力」なのは承知です。
ですが今このタイミングだからこそ考えられたことを書き留めておきたかったのです。
誰かのために幸せを願える全ての人が安心して眠れる日々が来ることを、未来に期待します。
企画画廊くじらのほね
飯田未来子
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