絵の役割。

 


こんにちは。いよいよ夏が始まりましたね。

空がすっかりサマー!という感じで青いです。

ラムネが恋しくなります。



「絵なんて何の役にも立たない。」

私たちが画廊を開こうとした矢先、こんな言葉を投げられたことがありました。

「絵は何の役にも立たないから、そんなものを売るなんて真っ当な商売じゃない。」

オープン1週間前くらいにそんなことを伝えられて、結構凹んだ記憶があります。

今となっては懐かしいなぁくらいに立ち直ったのでこうして書くこともできるようになりましたが、今でもふと思い出してはぐるぐる考えることがあります。

私自身、絵というものは人が生きる上で誰に対してもわかりやすい役割は持っていないと思います。

絵自体、というよりは「絵を家に飾ること」という行為は確かに人間が生命を維持する上では物理的には不要です。

ですがそれでも何かを飾るという行動はずっと昔から淘汰されることなく現代に残ってきました。

もちろん時代や文化によっては宗教的理由だったり、権力の誇示を目的とした場合もあったでしょう。

では現代において絵を買って飾るとはどんな意味を持つのか。


私は自分で好きな絵を買って飾ること、この行為をまるっと含めて「その人の自己表現」だと考えます。

自分を表現をすることは芸術家の仕事のみではなく、もっと身近なところで多くの人が行っていることだと思います。

例えばアクセサリーや好きな洋服を着て自分を着飾ること。

好きなパンを朝食に食べること。

好きではない色の雑貨は部屋に置かないこと。など。

こういったことも無意識かもしれませんが、自分を表す行動ではないでしょうか。

ここでキーワードになるのは「好き」や「好きでない」という主観に基づいた選択が行われている点です。

この選択はその事象がわかりやすい役割を「持たない」ほどより純粋な自己表現になっていきます。

自分の好きな絵を買って自分の部屋に飾ることは、上記例以上に純粋で根源的な自己表現のひとつだと思うのです。


例えばこれら「好き」の基準で全ての物事が選択できなくなったら世界はどうなるのか。

着れれば良いのだから服にバリエーションは無くなるでしょう。

食べられれば良いのだからパンに味のバリエーションは無くなるでしょう。

使えれば良いのだからたとえ自分が好きではない色味の雑貨でも、それしかなくなるかもしれません。


「芸術作品」は作るにしても買うにしても、そういう生存に不可欠というレールから外れたところにある「楽しみ」や「遊び」を多分に含みます。

そしてその「楽しみ」や「遊び」は実用的な物事にも取り入れられ、結果現代の私たちは個々に合う生活スタイルの選択を可能にしています。

その可能となった選択は私たちの好みと連結して、個人を表現することを可能にしました。

現代とはそういった「楽しみ」や「遊び」の選択を土台に、自己を表現する喜びを謳歌している時代なのかもしれません。

だから芸術作品を否定することは、その土台を全否定するようなものではいでしょうか。

今あなたが着ているデザインの服も、使っているコップの形も、もし芸術という表現の考え方がなければ生まれてこなかったものだと思います。

絵画を否定することは簡単です。

簡単ですが芋づる式にそういうさまざまな「楽しみ」や「遊び」もどんどん否定していくことになってしまうと思うのです。


「絵は何の役にも立たない」

その絵を見て何も感じなかった人には確かに何の役にも立たないものでしょう。

ですが、その絵を「好き」と思った人にとってはもしかしたらとても必要なものかもしれません。

逆に考えるなら、誰かが好きと思ってくれただけでその絵には存在価値が生まれると言えないでしょうか。

それは作者自身でも良いし、他の誰かでも良いのです。

「好き」という感情がその絵に向けられたとき、その絵は必要とされている。

誰かに好きになってもらえる、それだけで絵画は役割を全うしているとも言えないでしょうか。


もしかしたらそれは人に対しても同じことが言えるかもしれません。

人一人の存在の仕方と、絵一枚の在り方は実はとてもそっくりなものなのかもしれませんね。


企画画廊くじらのほね

飯田未来子


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