絵を見て何も感じないこと。


 

こんにちは。

現在開催中の榎並和春ドローイング展「いつものように」、厳しいご時世下ではありますがとっても素晴らしい作品ばかりが並んでおります。

ついつい笑顔になってしまうような、でもどこか手を合わせたくなるような、そんな不思議な雰囲気を持つ作品が優しく迎えてくれます。

GWに入りますがもしお近くお立ち寄りならぜひご覧ください。

感染対策をしつつお待ちしております。



「絵の見方がわからない」という方々に対して、これまで私は「自分が好きかそうでないかを軸に見ればいいと思いますよ」ということを積極的に伝えてきました。

ですが最近ふっと思ったのが「絵を見て何も感じないこともあるだろう」ということです。

好きかそうでないか以前に、そのどちらも無い、他の鑑賞者は何かを感じているのに見ていて何も自分の中には湧いてこない、そういうことだってあると思うし、現にそんな体験を私自身幾度となくしてきました。

では芸術作品に触れて何も感じないことはダメなことなのか、と考えると私はそれはそれで良いのではないかと思います。

無数にある作品の中で自分に合う合わない、どう頑張っても見ている作品の中に何も見出せない、そういうものと出会うことは自然なことだと思います。

むしろ作られた作品全部に何か特別なものを感じる方が難しいような気がします。人間関係の中で気の合わない人が出てくるように、その絵が物語ることの受け皿が見る側に必ずしもあるなんてことはないからです。

だからきっと街中で他人とすれ違うように無関心でしかいられない絵だってあるでしょう。

それでいいのです。

そういう無関心でしかいられない絵もあることを知って初めて、自然と何か心が動かされる絵との出会いがどれだけ特別なことかを知ることができると思います。

これは私の肌感覚で感じていることなので必ずしも正しいとは限りませんが、「どんな絵でも見た時に何かを感じなければならない」という無言の風潮がある気がしています。

そのため見る側が、時には無理やりにでも、見た絵からその絵の「特別」を探そうとすることもあるのではないかと思うのです。

個人的な意見としては、美術館に並ぶ絵、画廊に並ぶ絵など、見てきた全ての絵から何らかの感動を得なければならないことはないし、その描かれた意味を汲み取ることができなければならないなんてことも無いです。

そうやって身構えずに、力を抜いて散歩をするように絵を見てもいいのではないでしょうか。

散歩の中でふと目に止まる道端の花、すれ違った人、雲の形…そういうものを受け取る感覚で絵とも付き合ってみていいと思います。


「絵を見て何も感じないことを許す。」

意外とこの視点が欠けているからこそ、絵を見て何も感じなかった体験が「私には絵心がないんだな」という認識に繋がり、その人を芸術から遠ざけてしまっている…そんなこともあると思います。

何も感じない絵があるからこそ、心揺さぶられる絵との出会いがその人にとってどんなに特別な体験か。

そんなことも見えて来くる気がするのです。



企画画廊くじらのほね

飯田未来子

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