【コーヒーを飲みながら読むアートのお話 Vol.003】

 


こんにちは。くじらのほねです。

去年の末からなんとなく作っておりましたフリーペーパーの【コーヒーを飲みながら読むアートのお話】ですが、なんだかありがたいことに読んでくださる方が多く、思い切ってちゃんと冊子にしてみました。Vol.003からは印刷が綺麗です。

あまり画廊に入ったことのない方やアートに興味はあるけれどどうとっついたらいいのかわからない方向けを意識して、私の雑観を書いております。

小部数しか現在は作っていないので、あまりお目にかかる機会も少ないかもしれませんが、今のところ

・豆nakano(千葉駅近くのコーヒースタンド)

・PIE&COFFEE mamenakano(海浜幕張にある豆nakanoさんの2号店)

・自家焙煎珈琲豆屋じゃくう鳥(千葉市の大願寺町にあるコーヒー屋さん)

・SEVEN STEPS COFFEE CLUB(京成線みどり台駅近くのコーヒー屋さん)

に少しずつ置かせていただいております。

アート界はアート界で、というような壁を作りたくなくて、あえてカフェやコーヒースタンドなど多様な人が出入りする場所に置かせていただいております。

もし「うちのお店にも置いていいよ!」という所ありましたらお声を掛けてくださると嬉しいです。

こちらのフリーペーパーの掲載文はブログにも毎回まるっと載せていきますのでぜひみなさま読んでいただけると幸いです。

今回のVol.003も下記掲載させていただきます。

毎回本当に私のとっ散らかった思い事を書いているだけにも関わらず、たくさんの方から感想をいただいており、本当に嬉しいです。ありがとうございます。

今後も気ままに書いていけたらと思います。


企画画廊くじらのほね

飯田未来子





【コーヒーを飲みながら読むアートのお話 Vol.003】

企画画廊くじらのほね


画廊をやっていると、よく絵の見方について色々と話す機会がある。

「絵をどうやって見たらいいのかわからない」

上述の言葉は主に画廊に入ることを足踏みする人が言いがちな言葉だ。その「どうやって」を深く掘り下げていくと次にこんなワードが出てくることが多い。

「自分は絵の知識がないから(だから絵の見方がわからない)」

この言葉の裏側を見ると、絵とは専門知識がないと楽しめない難しいもので、画廊はわかる人にしかわからない専門的な場所であると思われているのかもしれない。

絵にまつわる知識は色々と存在する。技術的な知識だったり、美術史だったり、描いた人のことや描かれたもののこと…果たしてこれら全てを熟知していないと絵は楽しめないものなのか。

私から言わせれば答えはNOである。

確かに知識を持っていないと楽しめない側面もあるだろう。しかし、それだけが絵を楽しむ醍醐味かと言うと私は全くそうは思わない。

知識というものはいわゆる言語の世界のものである。しかし絵はどちらかと言うと言葉にできない事物を表現する媒体だ。もちろん言語的な作品を手がける作家もいて、そういう作品を楽しむ場合には先のような専門知識が必要になるかもしれない。

しかし多くの絵は作家の感性に基づいて描かれている。そういう絵を楽しむにはこちらの感性を開けば良いだけで、知識なんて必要ない。

感性を開くと書くとまたなんだか難しそうに聞こえるが、要はその絵を見ていて好きか嫌いかというようにプラスな感情が湧くかマイナスな感情が湧くか、はたまたどちらも入り混じったような感情になるか、そういった自分の感情の機微を自分が尊重しながら見ればいいのである。


画廊に来る人を見ていて最近思うのは、大人ほど自分の「好き」をはっきり言いたがらない人が多いということだ。これは特に日本の文化においてどのジャンルにもあることではなかろうか。

何気なく「どれが好きですか?」と尋ねることがあるが、即答できない人が本当に多いのだ。(むしろ子どもだったり海外の人たちの方が即座にひとつの絵を選ぶことが多い。)

もちろん良い絵がありすぎてひとつに絞れない人もいるだろう。しかし一方で好きな絵はあるけれど、それをはっきりと言葉に出すのを迷われる人も多い。「この絵が好きだけど、もしそれが他の人からみてあまり良くない絵だったら…」「どれが一番(世間的に)良いと言われる絵かわからない」こういうハズレを引いたときに恥をかくのが嫌だ、という感じで答えることを迷われる様子が見られるのだ。

しかし私は「どれが良い絵ですか?」と訊いてはおらず、「どれが好きですか?」と訊いているのだ。好きなものを決められない人が多いわけではないと思う。だがそれを口に出そうとするのを難しがる人が多いのではないかと思う。口に出した瞬間に自分が「好き」と思っているものが相手に共有されるわけだが、ここでどうしてだか「それを言ってしまうと相手にはこの絵が良い絵と思っていると思われる。もしその絵が(世間的に)良い絵でなかったら自分は見る目が無いと思われる」という謎の変換が起きている感覚を覚えることがしばしばある。


名画と呼べる絵というものは人の数だけ、いやそれ以上に存在し得るものだと私は考える。誰が何と言おうと自分が「好き」と思った絵は自分にとっての名画。それでよいではないかと思うのだ。もちろん研究対象として絵を見るのであれば、先に言ったような専門知識に基づく物差しが必要となるかもしれない。しかし研究されることを見越して描かれた絵はあまりないだろう。多くの作家、特に現代を生きる作家は自分の表現として絵を描くことが多い。本当にその作家の表現ができている絵というものは作家の心で描かれている絵だと思う。ならば見る側も同じように心で見れば良いのではなかろうか。

専門知識になぞった見方は専門家に任せて、そうでないみなさんはぜひ自由に感性を開いて絵と一度向き合っていただきたい。堅苦しい先入観は置いておいて、自分が見ていて心地よいかそうでないか、どういう形であれ感情に動きが生じた時、きっとあなたはその絵を見ているのだと思う。


(文・飯田未来子)



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