絵を浴びること。

 



こんにちは。

気づけば展示もあっという間に後半です。

先日は見え方が変わるかと思い展示替えを行いました。

より1枚1枚の世界観に浸りやすくなったかと思います。


変な話をするように思われそうですが、最近作品を「見る」ということに種類がある気がしています。

誰しも作品は「目」で見ると思うのですが、目で見て判断ができる見方とそうでない見方があると思うのです。

作品を見る時、まずは視覚情報から入ります。

目で見てそこに在るものを知覚し、その情報は脳で処理され、そこで何が描かれているのかとかどんな色形なのか、ということを認識します。

その上で得た情報に基づいて人は「この作品が好き」「この作品は好きじゃない」など作品に対して思うことを判断していくのでしょう。

ただこの場合あくまで作品は「情報」であり、ここでの作品の良し悪しや好き嫌いは自分の経験や知識に左右されやすいです。

りんごが好きな人が綺麗に描かれたりんごを見て「好きだな」と思う、逆にかわいい猫が好きな人がグロテスクに描かれた猫を見て「あまり好みじゃない」と思う、そういった判断は自分の好みや趣向に基づき、その好みや趣向は経験や知識に基づくからです。

しかし、こういう見方が通じない作品もあります。

見る人の経験や知識、好みや客観的評価(作者の肩書がどうだとか技術が上手い下手など)、そういうものを全て飛び越えてただただ衝撃を与えてくる絵。

そこに何が描かれているか、どういう色彩や形が画面に表されているか、そういう視覚的情報を脳で処理することが停止してしまい、頭が真っ白になるほど圧倒されてしまう作品。

そういう作品も世の中にはあるものです。

個人的な話になりますが、絵を見てただただ泣くしかできなくなったことが少し前にありましす。

その作品は藤崎孝敏さんの「南瓜」という絵でした。

F12号に描かれたふたつのカボチャの切れ端を描いただけの絵だったのですが、見た瞬間の衝撃は本当に忘れられませんでした。

ひたすら頭が真っ白になり、思考力は奪われ、ただただ眺めるしか出来なくなるほどの衝撃。

あの経験を経て私は「芸術作品は見るものではなく、浴びるものだ」という認識に至ったものです。

ここまで見る人を強制的に思考ストップに追い込むほどの強い力を持った絵はそうそうありませんが、ただ今まで絵を見てきてなんとなく感覚的に感じることもあった心的な衝動、それは確かに存在するものだった、ということがよりはっきりとクリアになった経験でした。


もちろん全ての絵にそういう心的な衝動があるわけではありません。

それは多分、作家さんがどう絵を手掛けたかにも寄ってくるのかもしれないと感じております。

極端な例ですが、モチーフの奇抜性だったり画面構成の特異性だったり、あるいは技術力を見せただけの絵だったり、すごいけれど「それだけ」という作品は所謂「目で描いた」作品であり、おそらく見る側も目で見るしかないのでしょう。

ただ中にはありきたりなモチーフをありきたりな画面構成で、しかも技術はそこまで…という作品で、不思議と心に何か刺さる様な感覚を覚えることもあります。

そういう作品は本当に「心で描いた」作品なのだと思います。


「心をこめて描かれた作品」というものを見るとき、見る側も「心で受け止める」という姿勢をとると今までとまた違う芸術作品の見方ができてくるのかもしれません。

心は目に見えないものです。ただ感じることはできるものと考えております。

作家さんが作品に託した「心」はきっと目で見るだけでは受け取れないものだと思います。

作品を前にしたときに、知識や経験、客観的な評価など「言葉」で説明できる領域ではない所で生じる自分の心の機微や感覚的な衝撃、あるいはじんわりと深く刺激してくる何か……そういったものに注意を傾けてぜひ絵を浴びてみて下さい。。

きっとそこに本当の「感動」があるのだと思います。



企画画廊くじらのほね

飯田未来子



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