投稿

覚書。

イメージ
当画廊でご紹介させていただいている作家さんの一人、小笠原亮一さんは画業一本で50年ほどやってきた作家さんです。 「栄養失調で倒れたこともあったよ」と笑いながらお話されていたこともありましたが、その笑顔の裏側には私なんかの想像力では計り知れない覚悟と生きることに対する厳しい眼差しを感じ取った気がしました。 「知名度」というとその高い低いは人によって感じ方があるでしょうが、例えば草間彌生さんのようにいわゆる誰もが知っている程の知名度は小笠原さんの場合なく、かと言って昨今の流行りであるSNSでフォロワーが多数いる、というわけでもありません。 「絵で食べていく」と言うと作家と作品の知名度というのは高くなければならないと思っている人も多いですが、割と私とご縁があった作家さんはそういうタイプは少ないです。 画業一本まではいかなくても、ずっと画業を中心に生活している方々などは意外と多く、その方達のお名前が全てメディアに流れるほど有名かと言うと、そんなことがない人の方が多いものです。 小笠原さんに「画業一本で50年やってきた」と言われたときに、私はとにかく「すごい」という言葉が頭の中を駆け巡りました。 もちろん50年という単位も画業一本という言葉並びも「すごい」のですが、それよりも何よりもそういうメディアだったりSNSだったり、いわゆる自分の知名度を上げてくれるようなツールをほとんど使わず、ただひたすらに「絵が持つ力」だけを武器に50年やってきたという事実に圧倒されました。 もちろんバブルなど時代背景は今と異なる時もあったでしょうし、一概に今の感覚だけでは評価できるものではないかもしれません。 ですが絵の世界において作家の知名度が誰もが知るというほど高くない場合、「絵」で勝負するしかないという当たり前の事実に、そしてその事実がどんなに厳しいことであるかに、小笠原さんと話して気付かされたものです。 * この記事の一番最初に載せた写真は当画廊で現在開催中の展覧会「絵と暮らす」に展示している、小笠原さんの作品「パンジー」の一部です。 作品が届いて開梱し、この作品と対面したときの衝撃は忘れられません。 頭が真っ白になるような、言葉が消え去ってしまったかのような、何も言えず「わぁっ」という感嘆だけが出てきたものです。 こういう作品を前にすると、その作品は誰が描いたのか、その描いた誰かはどうい

「絵と暮らす」

イメージ
  人が絵を始めとする美術作品を買う時、それはどんな理由が多いのでしょうか。部屋のインテリアとして、投資目的として…などなどその理由は様々だと思いますが、私の周囲を見る限り一番目立つ理由は「その作品を好きになったから」というものだと思います。  「好きになる」という現象は不思議なもので、本当に好きになった人やモノに対して「なぜそれが好きなのか」と問われた時に、これといった理由が浮かばないことがしばしばあるかと思います。理由が浮かばないということはその「好き」という現象を支える後ろ盾になるような明確な原因が無いわけで、こう書いてみると「好き」という現象はなんだか曖昧で頼りない風に感じます。ですがそのパワーは絶大で、人であれモノであれ一度惚れ込んでしまえばそれが絶対に欲しくなるという人は少なくないと思います。うっかり好きな絵を見つけてしまった時、「買わない」という選択肢を取るための理由となるカードはいくらでも出てくると思うのですが、いくら多くの理由を揃えてみても「好き」という現象はそれ一つで全ての理由を吹き飛ばしてしまうことがあるものです。これは絵に限らず、「買う」という行為全てに共通すると思います。理由の数で言ったら「買う」ことよりも「買わない」ための理由の方がはるかに多く出てくるものではないでしょうか。  さて「絵を好きで買う」ということは買い物の中でも特殊な部類かもしれません。洋服やアクセサリー、食品などの買い物も、もちろん「好き」という基準で選ぶこともありますが、これらはそもそも実用的な役割を持ちます。洋服や食品は必需品でもあり、手持ちがゼロの状態では生活ができません。アクセサリーなどは無くても生活はできますが、自身を着飾りオシャレに見せてくれる役割を持ちます。対して絵などの美術作品は生活の中に無くても特に不自由は無いでしょう。物理的に買った者に対してわかりやすく見返りがあるものでもなく、むしろ家のスペースを占領するだけかもしれません。「美術作品は何の役にも立たない」と平然と口にする人がいますが、わかりやすく物理的な役割を絶対とする人にとっては本当にそう見えるのだろうと思います。もちろん最初に述べた様にインテイリアや投資目的で買う人もいますが、そもそもそういった対象になる作品はインテリアとしての役割、投資対象になれる役割を持つ作品で、そうではない「ただ在る」

絵画購入のススメ。

イメージ
  こんばんは。 今年は涼しい雨のお盆ですね。室内よりも外の方が涼しいことが驚きです。 みなさまお元気でしょうか。 千葉にも緊急事態宣言が出てしまい、お客さまも少なめな最近で、素敵な展覧会を開催しているだけに悔しく寂しいものがあります。 多くの方にぜひいらしてください、と言いたいところですがなかなか言い難いのが辛いですね。 * こんな風に遠出がなかなか出来なくなると、意外といらっしゃるのが地元の方です。 お散歩がてら画廊を見つけてくださり「ここは何なのだろう」と興味を持ってくださる方もちらほらおります。 そういう方々が必ずしも絵を買い慣れているわけではなく、むしろ全く買ったことがない、そもそも絵を買うという発想がない、という方も多いです。 しかし中には「買ったことがないけれど、少し興味がある」というお客様もいます。 こういったお客様とお話をしてみると、興味はあるけれど買ったことがない理由として多いのが「飾る場所がない」ということです。 もちろん安い買い物ではないため「安易にお金を出せない」という理由もありますが、それ以上に「せっかく買っても家に合わないのではないか」という心配の方が多い印象があります。 そういう時私は「本当に『好きだな、欲しいな』と思う絵と出会うまでは買わなくても大丈夫だと思いますよ」とお伝えしております。 そして続けて「ただもし本当に『好きだな』と思う絵と出会えたら、その時は『家に合わないかもしれない』という心配はせず買ってみてください。ご自身で好きになった絵なら、ご自身のお家のどこかには必ずはまる場所があると思うので。」 とお伝えするようにしています。 これは私自身の経験であり、絵を買われるお客様からの経験談でもあります。 絵に限らず、自分が「好き!」と思ったものが自分の選択の集合体である自分の家や部屋に全く合わないというのはむしろ珍しいことではないでしょうか。 もちろん「リビングに飾りたい」など絵の置き場を最初から限定して選ぶ場合は別です。 前にも似たようなことをもう一人の店主が書いておりますが、好きな絵を一枚選ぶときは「もし無人島に1枚持っていくとしたら…」という想像をして選んでみると良いかもしれません。 飾るシチュエーションよりもまず、ご自身の心の中に飾りたい絵を選ぶことができると思います。 そうやって選ばれた絵はその人の居住空間のどこかに

絵の役割。

イメージ
  こんにちは。いよいよ夏が始まりましたね。 空がすっかりサマー!という感じで青いです。 ラムネが恋しくなります。 * 「絵なんて何の役にも立たない。」 私たちが画廊を開こうとした矢先、こんな言葉を投げられたことがありました。 「絵は何の役にも立たないから、そんなものを売るなんて真っ当な商売じゃない。」 オープン1週間前くらいにそんなことを伝えられて、結構凹んだ記憶があります。 今となっては懐かしいなぁくらいに立ち直ったのでこうして書くこともできるようになりましたが、今でもふと思い出してはぐるぐる考えることがあります。 私自身、絵というものは人が生きる上で誰に対してもわかりやすい役割は持っていないと思います。 絵自体、というよりは「絵を家に飾ること」という行為は確かに人間が生命を維持する上では物理的には不要です。 ですがそれでも何かを飾るという行動はずっと昔から淘汰されることなく現代に残ってきました。 もちろん時代や文化によっては宗教的理由だったり、権力の誇示を目的とした場合もあったでしょう。 では現代において絵を買って飾るとはどんな意味を持つのか。 私は自分で好きな絵を買って飾ること、この行為をまるっと含めて「その人の自己表現」だと考えます。 自分を表現をすることは芸術家の仕事のみではなく、もっと身近なところで多くの人が行っていることだと思います。 例えばアクセサリーや好きな洋服を着て自分を着飾ること。 好きなパンを朝食に食べること。 好きではない色の雑貨は部屋に置かないこと。など。 こういったことも無意識かもしれませんが、自分を表す行動ではないでしょうか。 ここでキーワードになるのは「好き」や「好きでない」という主観に基づいた選択が行われている点です。 この選択はその事象がわかりやすい役割を「持たない」ほどより純粋な自己表現になっていきます。 自分の好きな絵を買って自分の部屋に飾ることは、上記例以上に純粋で根源的な自己表現のひとつだと思うのです。 例えばこれら「好き」の基準で全ての物事が選択できなくなったら世界はどうなるのか。 着れれば良いのだから服にバリエーションは無くなるでしょう。 食べられれば良いのだからパンに味のバリエーションは無くなるでしょう。 使えれば良いのだからたとえ自分が好きではない色味の雑貨でも、それしかなくなるかもしれません。 「芸術作品」は

作田富幸個展を開催するにあたって。

イメージ
  作田富幸さんとの出会いは結構前で、知り合ったタイミングで言うのであればもしかしたらご縁のあった作家さんの中で一番古いかもしれません。 初めて作田さんの作品を見た時、当時の私がぐっとハートを掴まれたのをよく覚えています。 その後、紆余曲折を経てまさか自分が画廊を開き、そこで作田さんの作品を扱わせていただくことになるとは本当に夢にも思っていませんでした。 作田さんの作品は苦手な人は苦手かもしれません。 描かれる者は奇怪な形や顔をしたものが多く、その表情も歪んでいたり泣いていたりすることが多いようで、多くの人が想起するような「綺麗な絵」とはある意味で真逆を行くような作品がほとんどです。 人によっては不気味がったり怖がったりしてもおかしくない、そんな作風であることは間違えないでしょう。 もし絵をインテリアとして迎えたいのであれば、少なくとも現代日本社会に暮らす多くの人にとっては、作田さんの絵は積極的に避けられる部類になるかもしれません。 しかし今一度思い出したいこととして、そもそも絵とインテリアはイコールではありません。 もちろんインテリアとしての絵画というものも存在しますが、全ての絵画がインテイリアとして消費されるわけではないでしょう。 作田さんの絵は徹底して「芸術絵画」であろうとしており、インテリアとしての絵画とは程遠い位置に存在する作品ではないかと考えます。 「芸術は心地よくあってはならない。」 この言葉は有名な岡本太郎氏の言葉で、作田さんも大切にされている言葉だそうです。 芸術とはインテリアなどではなく、「綺麗に整ったもの」を作ることだけが目的ではありません。 これは私個人の考えですが、もし才能に秀でた表現者がその表現者自身から生じる物事だけをモチーフに作品を手掛けたとき、その作品は「綺麗に整う」ことが難しくなるのではないでしょうか。 例えば「綺麗な絵」と言って連想するとき、何を思い浮かべますか? 花の絵、鳥の絵、海や空、綺麗な街並み、美しい人… ざっと思いつく形を挙げてみましたが、これらは全て自分の外界に存在する事象の姿です。 多くの「綺麗な絵」を描く作家は自分が見てきた外界の存在や事象の姿を借り、そこに自分を投影して描くことが多いと思います。 (抽象画はまた別になりますが、テーマなどをやはり外界の存在や事象に借りることは少なく無いと思います。) ではもし絵を

無人島サバイバル

イメージ
作品 / 「イノセント」 「もしあなたが無人島に流されることになったとして、他に何にも持ってはいけないが、この中のどれか一枚だけ絵を持っていけるとしたら、どれを選びますか?」 先日榎並さんが在廊中に、お客さまへ問いかけた言葉。 お客さまはさっきより真剣に、その一枚を選びはじめた。 ✳︎ 自分ひとり未開の島に残されて、友人どころか人間が誰もいない。 どうやって食料を得るか?虫や動物をさけて安全に眠る場所はあるか? 生存していくために必要な道具も武器も何も持てないが、ただ一枚、絵を持って行けるという。 そんなときに、人はどんな絵を選ぶのだろう。 絵は何にも役に立たない。 食べられないし、乗り物にも、衣服にも、住居にもならない。 外敵から身を守る武器にもならないし、当然お金なんて無い世界だから換金して生活の足しにすることもできない。 むしろサバイバルには邪魔な荷物となるだろう。 それでも絵を、不用なものを、私たちは持っていくだろうか? 不安と孤独。 私なら、それらに支配されると思う。 今日、食べ物を得られないかもしれないという不安。 いつどこで虫や動物に襲われるかわからないという不安。 明日を生きて迎えられるないかもしれないという不安。 そして、孤独、孤独。 人は祈らざるをえないのではないか。 どの宗教のどの神様に、という話ではない。 自然に、あるいは、何か大いなる力に。 残念ながら私はサバイバルに必要な体力も知識も、精神力も持ち合わせていないから、ただただ、弱さ、無力さを痛感し、いっそ死んだ方が楽になれるとも考えるだろう。 それでもほんの少し生にしがみつけるとしたら・・・人は祈らざるをえないのではないか。 現代の社会には、無人島生活みたいな側面があると思う。 不安や孤独は様々に形を変えて染み出てくる。 「祈り」とは、神仏にお願いをする、という意味だけでは、決してないと思う。 もっと日常のなかにあって、それは呼吸をするかのように 大切な人やものごとを想ったり、何かを愛おしいと思うこと。 誰かの、また自分自身の、心からのことばを聴く時に。 そんな生活的なものではないかと私は思う。 絵は、祈りの拠り所だ。 その意味ではイコンや仏像にも似ているかもしれない。 安心できる場所などない世界で、生と死に挟まれて日々を送らねばならぬとき、 誰かがつくった「いのりのかたち」は、そのまま自

ノマド

イメージ
作品 / 「漂泊」 開催中の榎並さんの個展も気づけばもうすぐ折り返し。 旅の夜話のような夢のような時間は、あっという間に過ぎ去っていく。 榎並さんの画家としての生き方に憧れる。 日々を暮らしながら絵を描き、その時々の作品たちを携えて、東京、大阪、京都、地元甲府・・・と各地を巡る。 その生き様は、まるで旅芸人のようだ。 絵を描いて暮らすということ。 榎並さんはそれを体現している本職の画家である。 だからその絵には、責任と、ある種のきびしさとがある。 「ノマド」というのは、遊牧民など定住しない人々を指す言葉だ。 榎並さんの絵の主題にも度々登場するし、榎並さん自身のまるでジプシーのような生き様にも、その魂がある。 社会に決められた「安定」や「良い」とされる生き方のレールの乗せられただ「生かされる」だけの人生を捨てて、覚悟と責任とを引き受けることで手にすることのできる“自由”。 そこに見えるのは、肩書きや経歴や、枠組みなどで語ることは決してできない、「榎並さん」という人生そのものの姿だ。 そう、榎並さんは”自分”の人生を生きている。 生きようとしている、と言うべきか。 そして、その“自分”をさらけ出すことで絵を描いている。 榎並さんの絵に惹かれるということは、榎並さんの人生そのものへの憧れかもしれない。 ✳︎ たまには自分たちのことを書いてみよう。 店主夫妻、齢31。 一般的には働き盛り、これから社会的な地位も上がり、将来に向けて堅実にステップを踏んで行こうという時期だろうか。 そんな年頃に、画廊を始めた。 画廊をやっていると、どうもお金持ちだと思われがちだ。余裕のある商売に見えるのだろう。 しかしその実、余裕なんてものはひとかけらも無い。 創業も融資を受けているし、日々の家計はその日暮らしの自転車操業である。 そもそもの出発点もおかしい。 普通なら夢の開業に向けてコツコツ貯めた資金で、計画性をもって船出をするところだろうが、 私たちの出港時には、地図も、僅かな蓄えすらも無かった。 あるのは絵、だけだった。 馬鹿みたいに向こう見ずで、先が見えない生き方だ。 もちろん最初の頃は不安も大きかった。今も無いわけではない。 だが、不思議と心は健やかだ。 「絵を信じて進めばなんとかなるだろう」と思う。 他力本願に聞こえるかもしれないが、そうすることしか出来ないのだから仕方がない。 人