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魔女の秘密

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 榎並和春「ラビングユー」 こんにちは。 久しぶりのブログ更新となりました。 いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます。 現在当画廊では榎並和春ドローイング展「旅寝の夜話」を開催中です。 今月15日までになるこの展示、気づけばあと1週間ほどということに気づき、時の速さに目眩が起きそうです。 さて先日なのですが、時々当画廊にいらしてくださるとあるお客さまがお見えになりました。 小柄で可愛らしい奥さまなのですが、私は勝手に50代くらいかな?とずっと思っておりました。 それが先日話の流れでなんと70代であることが判明し、心底驚いたものです。 本当に正直どう頑張っても70代には見えないくらいの若々しさと姿勢の良さで「最近の70代は全然ご老人とは言えませんね」とぽろっと言葉にしたところ 「でもそれは人によりますよ。私より年下の友達でもおばあちゃんって雰囲気の方もいますし。」 とのことでした。 ではそのお客さまの最早「魔女」とも呼べそうな若々しさはどこからくるのか。 「エステに行ったりするような身体の外側からのケアよりは、身体の奥底からのアプローチが大事だと思うんです。身体の奥底にあるものってつまり心じゃないかなと思います。心に栄養を与えることってすごく大事なことだと思いますよ。」 これを聞いた時に私はいろいろ腑に落ちました。 いつも本当に楽しそうに画廊に並ぶ作品をご覧くださり、本当に気に入ったものに出会ったら惜しみなくご購入くださるこの方にとって、感動することは心に栄養を与えることであり、その感動を買うことは回りに回って自分への投資なのだろうと思いました。 そうやって自分が得た感動に対して素直に価値を認められる心の豊かさ、身体の一番奥底の豊かさは徐々に外へと広がり、結果こうして外見にも表れているのだろうな、と感じました。 今まで似たようなことは言葉では思っておりましたが、こうして体現されている方を目の前にすると圧倒される思いです。 着飾ったりすることで若いように見せることはせず、自分の芯から本当に若さを作り出し続けることは、どんなに高価なジュエリーや化粧品も敵いません。 「日常のなんてことないもの、例えばそのへんの道端に咲いているお花とか、そういったものに心からときめけるようになったら人生は勝ち組よ。」 姿勢よく笑顔でおっしゃれたその一言。 そこに全てがつまってい

「希望と平和の種」としての芸術

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  流行り病も落ち着かない中、隣国で戦争が始まったようです。 世界の情勢を見ていると決して他人事とは思えず、まさに「明日は我が身」のような感覚でニュースを見ております。 痛々しい映像や生々しい話題がネットでも多く見受けられるようになってきた中で、それでも私は画廊のバックヤードに今いて、近々開催予定の展覧会の準備などを進めております。 こういう時「自分のしていることは何なのだろう」と考えてしまいます。 私には聞こえないだけでどこかで爆発音も悲鳴も上がっていることは事実で、私が健康なだけでどこかで病や怪我に苦しんでいる人がいることも事実です。 そういう直接的に見えない悲惨な現実の隣で、それでも絵を売る仕事を選んでいる私は何なのだろう…そういう思いがぐるぐると最近回っておりました。 戦争やパンデミックの状況において、それらを直に解決できる力が求められた時に紛れもなく芸術は無力です。 一枚の絵というのは戦争で壊された建物の瓦礫ひとつ拾うこともできないし、病気で苦しむ子どもの頭をなでてあげることもできません。 芸術はこれらの問題に対して直接的な解決に導く力を持っていないこと、悔しくてもこれはまず認めなければならない事実でしょう。 この事実だけを見て「芸術は不要だ」と言う人が現れるのも正直不思議ではないかなと思います。 ですが私は絶対に芸術は不要なものだとは考えられません。 * 暴力と芸術には一点似たような面があるように思います。 それは他者への訴えかけを言葉によらない方法で行う点です。 ですがそのアプローチは全く逆だと思います。 暴力は外側から相手の形を無理やり変えていく節がありますが、芸術は内側から相手の形を無理のない範囲で変えていくことができます。 それはちょうど寓話の「北風と太陽」のようなイメージです。 このことに気づいたときに、私は芸術とは暴力的な問題解決手段とは真逆に位置するものなのではないかと思いました。 戦争の反対は平和と言いますが、戦争行為の反対は芸術表現にと言える可能性を見た気持ちでした。 美術でも音楽でも、それによる表現を見聴きして感動するとき、それは自分ではない他者の中にある世界に心動かされることになります。 そのことはイコールで「自分とは異なる存在」から感動を与えられたこととなり、他人が自分に楽しみや幸福を与えてくれることがある事実を確認することに他な

常設展によせて

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  Mikiko Katano「Parent and child」 現在くじらのほねでは2月21日まで常設展と称して、店主二人の作品を展示しております。 「飯田さん、絵描いてたんですか?!」 と今回の展示を開催したことで多くの人に言われました。 隠していたわけではないのですが、あくまでくじらのほねでは「画廊主」という役割を全うしたく、作家としての側面はあまり表に出してきませんでした。 というかそもそも作家と呼べるほど活動という活動はしてきていませんでしたし、展覧会も沢山やってきたわけではありません。 なので正直今回自分たちの作品を並べてしまっていいのかどうか、とても悩みました。 公私混同になってしまわないかと、むしろ開廊してから自分たちの展覧会を開くことはあえて避けてきました。 ではなぜ今になって展示することになったかというと、ものすごく単純な話で、急遽スケジュールが空いてしまったことにあります。 次の企画展まで少し期間が空いてしまったので、ずっと閉めたままというのはお店としてよろしくないなぁと思い、かと言って今から誰か作家さんにお願いするには時間が無さすぎるしな…と考えていた時に手元にある販売可能な作品が自分たちのものしかなかった、というのがお恥ずかしながら最大の理由です。 開催期間も短く、本当に急だったためDMなどは作らずWeb上だけの告知になっておりますが、なんともありがたいことに足を運んでくださる方は思ったよりも多く驚いております。 「どんな作品なのかな、と気になって」とおっしゃってくださる方が多いことが本当に嬉しくありがたい限りです。 そして「今回の展覧会とこれまでの展覧会を見てきて、店主さんの好みがわかるような気がして腑に落ちた感覚です」というようなコメントを何名かからいただいたのが面白かったです。 どうしても自分の作品は完全に客観視が難しく、他者の作品を見るときとはまた異なる種類の「よくわからなさ」が出てきます。 そういう自分で見てよくわからないものを画廊主として展示してしまってよいのか…これは今でも正直答えが出ていません。 ですが、今回自分の画廊に自分たちの作品を並べたことで私自身見えてきたものがあるのもまた事実で、ひとつ自分という人間をじっと見直す機会にはなったなと思っております。 どんな形であれ表現とは面白いですね。そのことは改めて痛感した気持ち

作品を見ること。

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  こんにちは。 とても久しぶりのブログとなってしまいました。 皆様お元気ですか? 私事ですが先日デジタル一眼レフカメラの新しいレンズを買いました。 昔の使い捨てカメラのような風合いに撮影できるレンズで、なかなかピントを合わせるのは難しいのですが、子供の頃によく見ていた写真のような雰囲気が出て面白いです。 東影美紀子作「森」 このレンズを使って展示風景を撮影してみたのですが、普段のレンズで撮影したものとはだいぶ雰囲気が異なります。 同じカメラでもレンズを変えれば異なって写り、同じ写真でもiPhoneで撮影したものとはまたやはり異なります。 同じ機械でもどんなレンズを通してどんな仕組みで写すのか、それで物事の見え方はこんなにも変わるのかと思いました。 東影美紀子作「かけらあつめ 009」 物事の見え方に関して。 同じ物でも環境が変われば見え方も変わると思いますが、上述のカメラの話のように環境が全く同じでも見る者のコンディションが変われば見え方は変わると思います。 人は常に「その時の自分」というレンズを通して外界の物を見ているのではないでしょうか。 「悲しんでいる自分」を通して外を見ればいつも見ている物や風景もどこか鬱々と映るかもしれませんし、逆に自分を励ましてくれているかのように見えるかもしれません。 自分にとって外界にある物は、自分が「見て」初めて自分にとってそれは存在することになると思います。(自分が一生それを見ないままだとその存在は自分にとって「無い」ことと等しいと思うのです。) 大学の頃の恩師は「見る」から「在る」とおっしゃっていましたが、そうである以上物の存在とは見る者によって恣意的に意味付けられていくのかもしれません。 ひとつのリンゴをAさんとBさんが見たとして、Aさんはリンゴに素敵な思い出があるのならそのリンゴも肯定的に目に映るかもしれません。逆にBさんはリンゴに嫌な思い出があったとしたらそのリンゴも否定的に見えるかもしれません。 このように普遍的に見ればリンゴはただひとつの物として存在しているだけでも、見る者によってその存在の意味は変わります。 ひとつの物には人の数だけ在り様があると思うのです。 東影美紀子作「交信『塔』」 そういう風に人は物を見ていると考える中で、美術作品を見ることもその例外ではないでしょう。 ひとつの同じ作品を見るにしても、その作品

覚書。

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当画廊でご紹介させていただいている作家さんの一人、小笠原亮一さんは画業一本で50年ほどやってきた作家さんです。 「栄養失調で倒れたこともあったよ」と笑いながらお話されていたこともありましたが、その笑顔の裏側には私なんかの想像力では計り知れない覚悟と生きることに対する厳しい眼差しを感じ取った気がしました。 「知名度」というとその高い低いは人によって感じ方があるでしょうが、例えば草間彌生さんのようにいわゆる誰もが知っている程の知名度は小笠原さんの場合なく、かと言って昨今の流行りであるSNSでフォロワーが多数いる、というわけでもありません。 「絵で食べていく」と言うと作家と作品の知名度というのは高くなければならないと思っている人も多いですが、割と私とご縁があった作家さんはそういうタイプは少ないです。 画業一本まではいかなくても、ずっと画業を中心に生活している方々などは意外と多く、その方達のお名前が全てメディアに流れるほど有名かと言うと、そんなことがない人の方が多いものです。 小笠原さんに「画業一本で50年やってきた」と言われたときに、私はとにかく「すごい」という言葉が頭の中を駆け巡りました。 もちろん50年という単位も画業一本という言葉並びも「すごい」のですが、それよりも何よりもそういうメディアだったりSNSだったり、いわゆる自分の知名度を上げてくれるようなツールをほとんど使わず、ただひたすらに「絵が持つ力」だけを武器に50年やってきたという事実に圧倒されました。 もちろんバブルなど時代背景は今と異なる時もあったでしょうし、一概に今の感覚だけでは評価できるものではないかもしれません。 ですが絵の世界において作家の知名度が誰もが知るというほど高くない場合、「絵」で勝負するしかないという当たり前の事実に、そしてその事実がどんなに厳しいことであるかに、小笠原さんと話して気付かされたものです。 * この記事の一番最初に載せた写真は当画廊で現在開催中の展覧会「絵と暮らす」に展示している、小笠原さんの作品「パンジー」の一部です。 作品が届いて開梱し、この作品と対面したときの衝撃は忘れられません。 頭が真っ白になるような、言葉が消え去ってしまったかのような、何も言えず「わぁっ」という感嘆だけが出てきたものです。 こういう作品を前にすると、その作品は誰が描いたのか、その描いた誰かはどうい

「絵と暮らす」

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  人が絵を始めとする美術作品を買う時、それはどんな理由が多いのでしょうか。部屋のインテリアとして、投資目的として…などなどその理由は様々だと思いますが、私の周囲を見る限り一番目立つ理由は「その作品を好きになったから」というものだと思います。  「好きになる」という現象は不思議なもので、本当に好きになった人やモノに対して「なぜそれが好きなのか」と問われた時に、これといった理由が浮かばないことがしばしばあるかと思います。理由が浮かばないということはその「好き」という現象を支える後ろ盾になるような明確な原因が無いわけで、こう書いてみると「好き」という現象はなんだか曖昧で頼りない風に感じます。ですがそのパワーは絶大で、人であれモノであれ一度惚れ込んでしまえばそれが絶対に欲しくなるという人は少なくないと思います。うっかり好きな絵を見つけてしまった時、「買わない」という選択肢を取るための理由となるカードはいくらでも出てくると思うのですが、いくら多くの理由を揃えてみても「好き」という現象はそれ一つで全ての理由を吹き飛ばしてしまうことがあるものです。これは絵に限らず、「買う」という行為全てに共通すると思います。理由の数で言ったら「買う」ことよりも「買わない」ための理由の方がはるかに多く出てくるものではないでしょうか。  さて「絵を好きで買う」ということは買い物の中でも特殊な部類かもしれません。洋服やアクセサリー、食品などの買い物も、もちろん「好き」という基準で選ぶこともありますが、これらはそもそも実用的な役割を持ちます。洋服や食品は必需品でもあり、手持ちがゼロの状態では生活ができません。アクセサリーなどは無くても生活はできますが、自身を着飾りオシャレに見せてくれる役割を持ちます。対して絵などの美術作品は生活の中に無くても特に不自由は無いでしょう。物理的に買った者に対してわかりやすく見返りがあるものでもなく、むしろ家のスペースを占領するだけかもしれません。「美術作品は何の役にも立たない」と平然と口にする人がいますが、わかりやすく物理的な役割を絶対とする人にとっては本当にそう見えるのだろうと思います。もちろん最初に述べた様にインテイリアや投資目的で買う人もいますが、そもそもそういった対象になる作品はインテリアとしての役割、投資対象になれる役割を持つ作品で、そうではない「ただ在る」

絵画購入のススメ。

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  こんばんは。 今年は涼しい雨のお盆ですね。室内よりも外の方が涼しいことが驚きです。 みなさまお元気でしょうか。 千葉にも緊急事態宣言が出てしまい、お客さまも少なめな最近で、素敵な展覧会を開催しているだけに悔しく寂しいものがあります。 多くの方にぜひいらしてください、と言いたいところですがなかなか言い難いのが辛いですね。 * こんな風に遠出がなかなか出来なくなると、意外といらっしゃるのが地元の方です。 お散歩がてら画廊を見つけてくださり「ここは何なのだろう」と興味を持ってくださる方もちらほらおります。 そういう方々が必ずしも絵を買い慣れているわけではなく、むしろ全く買ったことがない、そもそも絵を買うという発想がない、という方も多いです。 しかし中には「買ったことがないけれど、少し興味がある」というお客様もいます。 こういったお客様とお話をしてみると、興味はあるけれど買ったことがない理由として多いのが「飾る場所がない」ということです。 もちろん安い買い物ではないため「安易にお金を出せない」という理由もありますが、それ以上に「せっかく買っても家に合わないのではないか」という心配の方が多い印象があります。 そういう時私は「本当に『好きだな、欲しいな』と思う絵と出会うまでは買わなくても大丈夫だと思いますよ」とお伝えしております。 そして続けて「ただもし本当に『好きだな』と思う絵と出会えたら、その時は『家に合わないかもしれない』という心配はせず買ってみてください。ご自身で好きになった絵なら、ご自身のお家のどこかには必ずはまる場所があると思うので。」 とお伝えするようにしています。 これは私自身の経験であり、絵を買われるお客様からの経験談でもあります。 絵に限らず、自分が「好き!」と思ったものが自分の選択の集合体である自分の家や部屋に全く合わないというのはむしろ珍しいことではないでしょうか。 もちろん「リビングに飾りたい」など絵の置き場を最初から限定して選ぶ場合は別です。 前にも似たようなことをもう一人の店主が書いておりますが、好きな絵を一枚選ぶときは「もし無人島に1枚持っていくとしたら…」という想像をして選んでみると良いかもしれません。 飾るシチュエーションよりもまず、ご自身の心の中に飾りたい絵を選ぶことができると思います。 そうやって選ばれた絵はその人の居住空間のどこかに