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ノマド

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作品 / 「漂泊」 開催中の榎並さんの個展も気づけばもうすぐ折り返し。 旅の夜話のような夢のような時間は、あっという間に過ぎ去っていく。 榎並さんの画家としての生き方に憧れる。 日々を暮らしながら絵を描き、その時々の作品たちを携えて、東京、大阪、京都、地元甲府・・・と各地を巡る。 その生き様は、まるで旅芸人のようだ。 絵を描いて暮らすということ。 榎並さんはそれを体現している本職の画家である。 だからその絵には、責任と、ある種のきびしさとがある。 「ノマド」というのは、遊牧民など定住しない人々を指す言葉だ。 榎並さんの絵の主題にも度々登場するし、榎並さん自身のまるでジプシーのような生き様にも、その魂がある。 社会に決められた「安定」や「良い」とされる生き方のレールの乗せられただ「生かされる」だけの人生を捨てて、覚悟と責任とを引き受けることで手にすることのできる“自由”。 そこに見えるのは、肩書きや経歴や、枠組みなどで語ることは決してできない、「榎並さん」という人生そのものの姿だ。 そう、榎並さんは”自分”の人生を生きている。 生きようとしている、と言うべきか。 そして、その“自分”をさらけ出すことで絵を描いている。 榎並さんの絵に惹かれるということは、榎並さんの人生そのものへの憧れかもしれない。 ✳︎ たまには自分たちのことを書いてみよう。 店主夫妻、齢31。 一般的には働き盛り、これから社会的な地位も上がり、将来に向けて堅実にステップを踏んで行こうという時期だろうか。 そんな年頃に、画廊を始めた。 画廊をやっていると、どうもお金持ちだと思われがちだ。余裕のある商売に見えるのだろう。 しかしその実、余裕なんてものはひとかけらも無い。 創業も融資を受けているし、日々の家計はその日暮らしの自転車操業である。 そもそもの出発点もおかしい。 普通なら夢の開業に向けてコツコツ貯めた資金で、計画性をもって船出をするところだろうが、 私たちの出港時には、地図も、僅かな蓄えすらも無かった。 あるのは絵、だけだった。 馬鹿みたいに向こう見ずで、先が見えない生き方だ。 もちろん最初の頃は不安も大きかった。今も無いわけではない。 だが、不思議と心は健やかだ。 「絵を信じて進めばなんとかなるだろう」と思う。 他力本願に聞こえるかもしれないが、そうすることしか出来ないのだから仕方がない。 人

絵を見て何も感じないこと。

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  こんにちは。 現在開催中の榎並和春ドローイング展「いつものように」、厳しいご時世下ではありますがとっても素晴らしい作品ばかりが並んでおります。 ついつい笑顔になってしまうような、でもどこか手を合わせたくなるような、そんな不思議な雰囲気を持つ作品が優しく迎えてくれます。 GWに入りますがもしお近くお立ち寄りならぜひご覧ください。 感染対策をしつつお待ちしております。 * 「絵の見方がわからない」という方々に対して、これまで私は「自分が好きかそうでないかを軸に見ればいいと思いますよ」ということを積極的に伝えてきました。 ですが最近ふっと思ったのが「絵を見て何も感じないこともあるだろう」ということです。 好きかそうでないか以前に、そのどちらも無い、他の鑑賞者は何かを感じているのに見ていて何も自分の中には湧いてこない、そういうことだってあると思うし、現にそんな体験を私自身幾度となくしてきました。 では芸術作品に触れて何も感じないことはダメなことなのか、と考えると私はそれはそれで良いのではないかと思います。 無数にある作品の中で自分に合う合わない、どう頑張っても見ている作品の中に何も見出せない、そういうものと出会うことは自然なことだと思います。 むしろ作られた作品全部に何か特別なものを感じる方が難しいような気がします。人間関係の中で気の合わない人が出てくるように、その絵が物語ることの受け皿が見る側に必ずしもあるなんてことはないからです。 だからきっと街中で他人とすれ違うように無関心でしかいられない絵だってあるでしょう。 それでいいのです。 そういう無関心でしかいられない絵もあることを知って初めて、自然と何か心が動かされる絵との出会いがどれだけ特別なことかを知ることができると思います。 これは私の肌感覚で感じていることなので必ずしも正しいとは限りませんが、「どんな絵でも見た時に何かを感じなければならない」という無言の風潮がある気がしています。 そのため見る側が、時には無理やりにでも、見た絵からその絵の「特別」を探そうとすることもあるのではないかと思うのです。 個人的な意見としては、美術館に並ぶ絵、画廊に並ぶ絵など、見てきた全ての絵から何らかの感動を得なければならないことはないし、その描かれた意味を汲み取ることができなければならないなんてことも無いです。 そうやって身構えずに

浅見哲一さんの絵についての思い事。

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  こんにちは。 ブログはすっかりお久しぶりとなってしましました。 今日は浅見哲一さんの作品について思い事を書いてみようかな、と思います。 現在くじらのほねでは「浅見哲一個展 夜の在り処」を開催中です。 こちらの展覧会、会期が早くもあと1週間で今月23日までとなっております。 くじらのほねの展示は完全に企画展のみで、たまに作家さんの選考基準などを尋ねられることがあります。 「選考基準」なんて書くとなんだか偉そうですが、当画廊ではシンプルに運営している私たちがその作家さんの作品が好きかどうかで判断させていただいております。 贅沢にも、本当に好きになってしまった作家さんのみに展覧会をお願いしている状況です。 というわけで浅見さんの作品も当然「好き」から出発しており、個展を実際に開催する前から別の画廊さんで作品を買ってしまうほど好きでした。 しかしこうして「展覧会」を開催するという形で浅見さんの作品と接し、日々作品に囲まれて過ごしていたら、なんだかゆっくりゆっくりじっくりじっくりと私の中の「好き」の温度が上がっていくのを感じており、「まだまだ好きになれたんだ!」と自分でも少し驚いております。 浅見さんの作品は一見すると地味と思われてしまうかもしれません。 ぱっと見て勢いよく視界の中で主張するような艶やかな色遣いもなければ、誰もが目を引く目立ったモチーフがあるわけでもありません。 ですがじっくりと時間をかけて向き合い、眺めていると、静かにゆっくり心の深いところへと優しく刺さってくるものがあります。 その心に刺さったものが日々大きくなっていくような、まるで種から発芽した植物がゆっくりじっくり上に伸びて育っていくような、そんな柔らかい速度でなんだか「好き」が育っている、日々そんな感覚を抱きながら展覧会会期を過ごしております。 生活の中に絵を飾ることにおいて、もしかしたら浅見さんの絵はある意味でとても飾りやすいのではないかとそんな体験をしながら最近思います。 暮らしの中にすっと溶け込み、じっくりとそこに根を下ろしていくような、そんな力のある絵。 気取らず、手垢にまみれた生活スペースの片隅に不思議と飾れてしまう魅力的な素朴さ、それでいて飾る前とは確実に何か違った空気感を作り出す絵。 こんな絵が描ける人は、一体何人いるのでしょう。 そんな風に絵を眺めていると、浅見哲一という人物は徹底

本当に好きだと思った作品を買うこと。

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  こんにちは。くじらのほねです。 だいぶ暖かい日が増えてまいりました。お散歩ついでに画廊へ立ち寄ってくださる方も今日は多かったです。 当画廊がオープンしてから5ヶ月目に入りました。 誰でも気軽に入れる画廊をずっと目指しておりますが、ありがたいことに普段画廊という場に馴染みのない方や、これまで画廊に入ったことが無かったという方にも扉を開けていただくことが増えてきたように思います。 「ずっとどこか他人事だと思っていた芸術の世界に、自分も入ってみていいんだな、入りたいなと思えました。」 こんな感想を今日はいただき、とても嬉しかったです。 まだまだ絵を家に飾る文化が根付かない日本ですが、自分が「好き」だと思った作品にお金を払って日々眺めて暮らすとはどういうことなのか、色々と考える時があります。 絵をはじめとする芸術作品はわかりやすい役割を持ちません。 食べたり乗ったり着たりという、物的に人に何かを施すことができない存在です。 しかし作品は「物的な役割を持たない」からこそ良いのだと考える時があります。 物的な役割を持たない絵を買う時、多くの人の理由としては「その絵に感動したから」「その絵が好きだから」という場合が多いでしょう。(中には投資の名目やネームバリューで買う人もいますがそれはまた別の話です。) 作品に限らず「不要不急のものだけれど、自分が好きだから買う」というときの買い物というのは、その品に対してだけでなく、自分自身の「感動」だったり「好きという感情」だったりにもその価値を払えるということです。 本当に好きで作品を買うというのは、ある意味で自己肯定でもあるのだと思います。 と同時に自分のスペースに不要不急の存在を置いておける「心的な」余裕のある現れでもあると感じます。 つまり好きな作品を買って飾るとは、自分の「好き」をそれだけ肯定していることになり、それは自分自身という存在への肯定でもあるのではないかと思うのです。 「絵を飾っていると励まされるのです」という方が多い印象を受けますが、そういう方は本当にその絵を気に入られて買ったのだろうな、と感じます。 自分の「好き」が絵に投影され、回りに回って自身を肯定するからなかもしれませんね。 人の「好き」という感情や感動を引き出す、もしかしたらそれが作品を買うということの真価なのかもしれません。 企画画廊くじらのほね 飯田未来

【コーヒーを飲みながら読むアートのお話 Vol.003】

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  こんにちは。くじらのほねです。 去年の末からなんとなく作っておりましたフリーペーパーの【コーヒーを飲みながら読むアートのお話】ですが、なんだかありがたいことに読んでくださる方が多く、思い切ってちゃんと冊子にしてみました。Vol.003からは印刷が綺麗です。 あまり画廊に入ったことのない方やアートに興味はあるけれどどうとっついたらいいのかわからない方向けを意識して、私の雑観を書いております。 小部数しか現在は作っていないので、あまりお目にかかる機会も少ないかもしれませんが、今のところ ・豆nakano(千葉駅近くのコーヒースタンド) ・PIE&COFFEE mamenakano(海浜幕張にある豆nakanoさんの2号店) ・自家焙煎珈琲豆屋じゃくう鳥(千葉市の大願寺町にあるコーヒー屋さん) ・SEVEN STEPS COFFEE CLUB(京成線みどり台駅近くのコーヒー屋さん) に少しずつ置かせていただいております。 アート界はアート界で、というような壁を作りたくなくて、あえてカフェやコーヒースタンドなど多様な人が出入りする場所に置かせていただいております。 もし「うちのお店にも置いていいよ!」という所ありましたらお声を掛けてくださると嬉しいです。 こちらのフリーペーパーの掲載文はブログにも毎回まるっと載せていきますのでぜひみなさま読んでいただけると幸いです。 今回のVol.003も下記掲載させていただきます。 毎回本当に私のとっ散らかった思い事を書いているだけにも関わらず、たくさんの方から感想をいただいており、本当に嬉しいです。ありがとうございます。 今後も気ままに書いていけたらと思います。 企画画廊くじらのほね 飯田未来子 * 【コーヒーを飲みながら読むアートのお話 Vol.003】 企画画廊くじらのほね 画廊をやっていると、よく絵の見方について色々と話す機会がある。 「絵をどうやって見たらいいのかわからない」 上述の言葉は主に画廊に入ることを足踏みする人が言いがちな言葉だ。その「どうやって」を深く掘り下げていくと次にこんなワードが出てくることが多い。 「自分は絵の知識がないから(だから絵の見方がわからない)」 この言葉の裏側を見ると、絵とは専門知識がないと楽しめない難しいもので、画廊はわかる人にしかわからない専門的な場所であると思われているのかもしれ

新型コロナウイルス感染対策につきまして

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こんにちは。くじらのほねです。 緊急事態宣言が発令され、千葉県でも感染者数がますます増えてまいりました。 このまま開廊を続けてよいのか?お客様やそのご家族の安全を脅かしはしないか?と日々自問しておりますが、 閉塞感漂うこんな時こそ、町に開かれた場所でありたい。 ほっと安心できる場所でありたい。 作品にふれ、こころ温まるような時間を過ごしていただきたい、という思いから開廊を続けております。 以前からご無理のない来廊をお願いしておりましたため、幸い、人数が密になることは稀です。 感染対策をいま一度見直し、今後も安心して作品をご覧いただける様、できる限りのことを尽くしてお客さまをお待ちしております。 具体的な対策といたしまして、 ​ ・お茶のご提供の中止(マスクを外す機会をなくすため) ・入店時の検温の実施 ・十分な換気 ・手を触れる箇所のこまめな消毒(ドアノブ、椅子・テーブル、筆記具、お手洗いなど) ・手指消毒用アルコールの設置 ・全てのお客様、在廊中の作家様、店主のマスク着用の徹底 ・混雑時のお声がけ ・咳、発熱、味覚障害、その他体調に不安な症状のある方への入店のお断り ​ 等 ​ なお、開廊時間につきましては、来廊人数が集中することを避けるため、短縮せずにいままで通りです。 お客様にはご不便をおかけすることもあるかと思いますが、ご理解とご協力の程よろしくお願いいたします。 ​ ​ 企画画廊くじらのほねは「千葉市新型コロナ感染症対策取組宣言の店」の認定を受けており、千葉市のガイドラインに基づいた新型コロナウイルス感染対策を実施しております。 ※ 「千葉市新型コロナ感染症対策取組宣言の店」一覧 https://www.city.chiba.jp/hokenfukushi/iryoeisei/seisaku/corona_sengennomise_open.html ​ 企画画廊くじらのほね 飯田未来子 飯田洋平

【コーヒーを飲みながら読むアートのお話 Vol.2】

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  こんにちは。くじらのほねです。 前展示よりひっそり作ってみましたフリーペーパーですが、こっそりVol.2も作っておりました。 新倉さんの絵を挟みながら文章を展開させていただいております。 とは言ってもまだそこまで置き場所は多くなく、Vol.2に関しては今のところ幕張にあります「Pie & Coffee mamenakano」さまにてお手に取ることができます。 今回も下記に同文章を掲載しますので、よかったらお付き合いください。 画廊という場所はそもそもどんな所か、ということを個人的視点から簡単に書かせていただきました。 人によって様々な意見や考えがある議題だと思いますが、「これ」という正解もまた無いものだと思います。 こういう考えで画廊を営んでいる人もいるのだなぁ、というくらいの軽い感覚でお読みいただければ幸いです。 *** 【コーヒーを飲みながら読むアートのお話 Vol.2】 画廊を開業してから3ヶ月が経とうとしている。 てんやわんやしながらなんとか出船したわけだが、船を漕ぎ始めて強く感じたことがひとつある。 それは「画廊」という場の存在が、いかに一般の方々にとって縁遠いものと思われているかということだ。 「画廊を開いた」というと何人かに一人は「画廊ってそもそも何?」と返ってきたし、存在を知ってはいても「入ったことがない」という方が周囲だけでも多い。 多分この文章をお読みになってくださっている方の中でもそういう方はいるのではないだろうか。 では画廊とは何か。 流石にこんな率直な質問を投げてくる人とはお会いしたことはないが、実は私も一言で答えられる単語がまだ見つからないでいる。少し長い答えを言うならば「少なくとも私の画廊は街の美術館であり、街の絵のお店でありたい。」と答えるかもしれない。 ここで「私の画廊は」とつくのは、画廊という形態は画廊主の数だけあると言っても過言ではないからだ。 例えばカフェという場なら、どんなに店のオーナーが違っても「カフェ」という単語によって自分がその場に入った後の行動を予想することは可能だろう。(入店→注文→飲食→支払い という一連の流れがイメージしやすく、この流れの順番は様々でもだいたいのお店において共通イメージとして入る前から想像ができる。) しかし画廊はどうだろう。「絵をはじめとする美術作品を扱う」という点で