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心の箱

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【小林健二「寝台、作業台、bathroom、菜園、そして人生」/ 2022年】 小林健二個展「糸遊、朧、陽炎の部屋」にて展示中 小林健二個展「糸遊、朧、陽炎の部屋」も会期半ばとなりました。 今展で一番多くいただくお声は「今までの作品と全然違うね」という言葉です。 長年、小林健二作品を見てこられたお客さまには特に、ときに戸惑いを、ときに感嘆をこめてその違いを楽しんでいらっしゃいました。 私たちが初めて健二さんの作品と出会ったのは6年前。 世界や宇宙、物質そのものが言葉にならない詩をうたうような作品群に、子供にかえったように胸が躍りいつまでも眺めていました。 生物学、物理、化学、考古学、あらゆる分野を横断し“宇宙”そのものと対話するように生み出された作品たち。 それが今展では一変し、すべてが霧のように淡い世界の中に閉じ込められた白い箱が並びます。 箱の中にはいくつかのオブジェ。人物を思わせるものの姿、生活や時間、内面世界を内包したような朧な空気― 今まで見てきた作品に宿る脈動するような生命感とはまたことなり、そこには静かな寝息、薄明りの中で見る夢のような、「静」の世界が広がっています。 展示空間は、心の箱へ。 ひとつひとつの作品が、私たちのなかにある沢山の心の箱の、それぞれの覗き窓のようにも思えます。 そこには人間の姿だけでなく、ときおりこの世界に立ち現れる美しく儚い現象も垣間見えます。 外的世界との間に生じる結晶も、私たちの心の在りようの一つなのかもしれません。 どうか一度、会場でその箱を覗き込んでみてほしいのです。 日々たくさんの情報や悩み事が押し寄せ、立ち止まる暇もない私たちに ほんのひと時の無音を。 やさしく視界を遮蔽してくれる陽炎(かぎろひ)を。 私見を述べてしまいましたが、 皆さまお忙しいなかとは存じますが、心よりお待ちしております。 企画画廊くじらのほね 飯田洋平 *** 小林 健二 個展 「糸遊、朧、陽炎の部屋」 2022年10月12日(水)-10月31日(月) 10:00~20:00 火曜 定休(今展は水曜日も営業致します。) 【作家来廊日】10月22日午後より予定 今展は山口画廊さんと合同企画となります。 【山口画廊】https://www.yamaguchi-gallery.com/ 【お問い合わせ】 Tel:043-372-1871 Mail:g

「人間を諦めない」という姿勢

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  【小林健二「透明な坂道のある部屋」/ 2022年】 小林健二個展「糸遊、朧、陽炎の部屋」にて展示予定 何カ月か前のことになるのですが、同じ西千葉エリアにある山口画廊さんに遊びに行った時の話です。 その時期は丁度ウクライナ問題が始まったばかりの頃で、社会の雰囲気がどことなく暗澹としてきたように思われる時期でした。 山口さんも展覧会に来るお客さんが急に減ったと仰っており、何となく気持ちが沈みやすく芸術どころではない空気になってきているんですかね、というような明るくない話をしておりました。 実際に戦争の渦中に置かれてしまった場合、きっと真っ先に捨てられていくのは我々のような職業なのだろう、という話をひとしきりした後に 「でもね。1945年8月の終戦から一カ月後の9月に東京の銀座で行われた個展があるんですよ。絶望しそうになることは多いけれどその史実からはいつも希望をもらいます。」 ということを教えていただきました。 さらりと仰っておりましたが、よくよく考えると実はものすごい史実だったのではないかと思い、後でインターネットで少し調べてみたのですが、情報量こそ少ないものの確かに1945年9月に銀座で三岸節子さんという女流画家が個展を開催していた事実が出てきました。 1945年8月に終戦するまで東京は空襲に見舞われていたことを考えると、そこからわずか一カ月というのは復興も何もままならない中で行われた個展だったのだろうと察します。 「人間を諦めない」 その史実を眺めていく中で私の中に浮かんだ言葉がそれでした。 * 少し前のブログで「戦争の反対の位置に芸術があるのではないか」ということを述べたのですが、そもそもこの戦争と芸術という現象は人間特有のものではないかと思います。 人間と自然界に属する他の生き物の違いを述べると沢山あると思いますが、私はそのひとつに「死」というものへの認識があると思います。 多くの生物はそもそも自らがいずれ死んでいくことを意識しておらず、「今を生きる」ことだけに集中して動いているという話を聞いたことがあります。 自然界はそもそもひとつひとつの生物個体よりも種の存続を優先に流れている面があり、その連鎖の結果、大きな自然の生命体の循環を保っているところがあると言えます。 一方で人間は「人間」という生物種の存続よりも、ひとつひとつの個体の存在価値を高めてきた生き

「美術が好きな一人の人」という眼差し。

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小笠原亮一「雨の日」 先日とあるお客さまとお話していた時のことです。 その方は前から好きな美術作品を買う方で、一般的な「絵を買う」という感覚からするともしかしたらその頻度は高い方かもしれない、という印象でした。 その方に言われたことが 「たまに私コレクターさんと呼ばれることがあるのだけれど、私自身コレクターという自覚は全く無いんです。好きな作品と出会って、それが自分の生活に付き合ってくれそうだったら購入させていただいているだけで、集めるのが目的ではないので。」 というものでした。 その時は「ああ、この方はそうなんだな」という風に思っただけだったのですが、何となくそのことが頭に残る日々でした。 刑部真由「雨やどり」 その数日後、友人と話していた中で 「美術品て人生でそんなに何度も買う物じゃないよね」 と言われた時に「一般的に作品を購入することってやはりそういうイメージなんだなぁ」と思ったのですが、その友人に「でも買う人は買うのだろうね」と言われた際、急に先のお客さまのお話を思い出しました。 その友人のイメージだと「何度もリピートして作品を買う人」は「コレクター」というカテゴリーに入るという風なのでしょう。 では先ほどのお客さまは自分では否定していても、やはり側から見ると「コレクター」になるのでしょうか。 私としてはそのお客さまを「コレクター」として見たことはありませんでした。 実際に当画廊でも作品をお求めくださったこともありますし、他の画廊さんでも購入したお話は本人から聞いて知っています。 ですがどうにも「コレクター」としてカテゴライズするには違和感がありました。 もちろんご自身が否定している、ということもあるのかもしれません。 ですがそれ以上にそのお客さまの作品の向き合い方は「コレクター」というある種特別な枠組みにあえて入るようなものではなく、単純に「美術が好きな一人の人」というイメージが強い印象が私にはあります。 中條いずみ「眠っているものよ、めざめよ」 人として生きる以上、できれば好きなものに囲まれていたいと思うのはわりと一般的なことかと思います。 普段使いする日用品も自分の好きな色や柄を選びたいし、普段口にする食べ物もできるなら好きな食材や料理にしたい。 生活を送る上でそんな風に思うのはわりと多くの人にあるかと思います。 私が思うにそのお客さまの美術作品の買い

魔女の秘密

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 榎並和春「ラビングユー」 こんにちは。 久しぶりのブログ更新となりました。 いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます。 現在当画廊では榎並和春ドローイング展「旅寝の夜話」を開催中です。 今月15日までになるこの展示、気づけばあと1週間ほどということに気づき、時の速さに目眩が起きそうです。 さて先日なのですが、時々当画廊にいらしてくださるとあるお客さまがお見えになりました。 小柄で可愛らしい奥さまなのですが、私は勝手に50代くらいかな?とずっと思っておりました。 それが先日話の流れでなんと70代であることが判明し、心底驚いたものです。 本当に正直どう頑張っても70代には見えないくらいの若々しさと姿勢の良さで「最近の70代は全然ご老人とは言えませんね」とぽろっと言葉にしたところ 「でもそれは人によりますよ。私より年下の友達でもおばあちゃんって雰囲気の方もいますし。」 とのことでした。 ではそのお客さまの最早「魔女」とも呼べそうな若々しさはどこからくるのか。 「エステに行ったりするような身体の外側からのケアよりは、身体の奥底からのアプローチが大事だと思うんです。身体の奥底にあるものってつまり心じゃないかなと思います。心に栄養を与えることってすごく大事なことだと思いますよ。」 これを聞いた時に私はいろいろ腑に落ちました。 いつも本当に楽しそうに画廊に並ぶ作品をご覧くださり、本当に気に入ったものに出会ったら惜しみなくご購入くださるこの方にとって、感動することは心に栄養を与えることであり、その感動を買うことは回りに回って自分への投資なのだろうと思いました。 そうやって自分が得た感動に対して素直に価値を認められる心の豊かさ、身体の一番奥底の豊かさは徐々に外へと広がり、結果こうして外見にも表れているのだろうな、と感じました。 今まで似たようなことは言葉では思っておりましたが、こうして体現されている方を目の前にすると圧倒される思いです。 着飾ったりすることで若いように見せることはせず、自分の芯から本当に若さを作り出し続けることは、どんなに高価なジュエリーや化粧品も敵いません。 「日常のなんてことないもの、例えばそのへんの道端に咲いているお花とか、そういったものに心からときめけるようになったら人生は勝ち組よ。」 姿勢よく笑顔でおっしゃれたその一言。 そこに全てがつまってい

「希望と平和の種」としての芸術

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  流行り病も落ち着かない中、隣国で戦争が始まったようです。 世界の情勢を見ていると決して他人事とは思えず、まさに「明日は我が身」のような感覚でニュースを見ております。 痛々しい映像や生々しい話題がネットでも多く見受けられるようになってきた中で、それでも私は画廊のバックヤードに今いて、近々開催予定の展覧会の準備などを進めております。 こういう時「自分のしていることは何なのだろう」と考えてしまいます。 私には聞こえないだけでどこかで爆発音も悲鳴も上がっていることは事実で、私が健康なだけでどこかで病や怪我に苦しんでいる人がいることも事実です。 そういう直接的に見えない悲惨な現実の隣で、それでも絵を売る仕事を選んでいる私は何なのだろう…そういう思いがぐるぐると最近回っておりました。 戦争やパンデミックの状況において、それらを直に解決できる力が求められた時に紛れもなく芸術は無力です。 一枚の絵というのは戦争で壊された建物の瓦礫ひとつ拾うこともできないし、病気で苦しむ子どもの頭をなでてあげることもできません。 芸術はこれらの問題に対して直接的な解決に導く力を持っていないこと、悔しくてもこれはまず認めなければならない事実でしょう。 この事実だけを見て「芸術は不要だ」と言う人が現れるのも正直不思議ではないかなと思います。 ですが私は絶対に芸術は不要なものだとは考えられません。 * 暴力と芸術には一点似たような面があるように思います。 それは他者への訴えかけを言葉によらない方法で行う点です。 ですがそのアプローチは全く逆だと思います。 暴力は外側から相手の形を無理やり変えていく節がありますが、芸術は内側から相手の形を無理のない範囲で変えていくことができます。 それはちょうど寓話の「北風と太陽」のようなイメージです。 このことに気づいたときに、私は芸術とは暴力的な問題解決手段とは真逆に位置するものなのではないかと思いました。 戦争の反対は平和と言いますが、戦争行為の反対は芸術表現にと言える可能性を見た気持ちでした。 美術でも音楽でも、それによる表現を見聴きして感動するとき、それは自分ではない他者の中にある世界に心動かされることになります。 そのことはイコールで「自分とは異なる存在」から感動を与えられたこととなり、他人が自分に楽しみや幸福を与えてくれることがある事実を確認することに他な

常設展によせて

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  Mikiko Katano「Parent and child」 現在くじらのほねでは2月21日まで常設展と称して、店主二人の作品を展示しております。 「飯田さん、絵描いてたんですか?!」 と今回の展示を開催したことで多くの人に言われました。 隠していたわけではないのですが、あくまでくじらのほねでは「画廊主」という役割を全うしたく、作家としての側面はあまり表に出してきませんでした。 というかそもそも作家と呼べるほど活動という活動はしてきていませんでしたし、展覧会も沢山やってきたわけではありません。 なので正直今回自分たちの作品を並べてしまっていいのかどうか、とても悩みました。 公私混同になってしまわないかと、むしろ開廊してから自分たちの展覧会を開くことはあえて避けてきました。 ではなぜ今になって展示することになったかというと、ものすごく単純な話で、急遽スケジュールが空いてしまったことにあります。 次の企画展まで少し期間が空いてしまったので、ずっと閉めたままというのはお店としてよろしくないなぁと思い、かと言って今から誰か作家さんにお願いするには時間が無さすぎるしな…と考えていた時に手元にある販売可能な作品が自分たちのものしかなかった、というのがお恥ずかしながら最大の理由です。 開催期間も短く、本当に急だったためDMなどは作らずWeb上だけの告知になっておりますが、なんともありがたいことに足を運んでくださる方は思ったよりも多く驚いております。 「どんな作品なのかな、と気になって」とおっしゃってくださる方が多いことが本当に嬉しくありがたい限りです。 そして「今回の展覧会とこれまでの展覧会を見てきて、店主さんの好みがわかるような気がして腑に落ちた感覚です」というようなコメントを何名かからいただいたのが面白かったです。 どうしても自分の作品は完全に客観視が難しく、他者の作品を見るときとはまた異なる種類の「よくわからなさ」が出てきます。 そういう自分で見てよくわからないものを画廊主として展示してしまってよいのか…これは今でも正直答えが出ていません。 ですが、今回自分の画廊に自分たちの作品を並べたことで私自身見えてきたものがあるのもまた事実で、ひとつ自分という人間をじっと見直す機会にはなったなと思っております。 どんな形であれ表現とは面白いですね。そのことは改めて痛感した気持ち

作品を見ること。

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  こんにちは。 とても久しぶりのブログとなってしまいました。 皆様お元気ですか? 私事ですが先日デジタル一眼レフカメラの新しいレンズを買いました。 昔の使い捨てカメラのような風合いに撮影できるレンズで、なかなかピントを合わせるのは難しいのですが、子供の頃によく見ていた写真のような雰囲気が出て面白いです。 東影美紀子作「森」 このレンズを使って展示風景を撮影してみたのですが、普段のレンズで撮影したものとはだいぶ雰囲気が異なります。 同じカメラでもレンズを変えれば異なって写り、同じ写真でもiPhoneで撮影したものとはまたやはり異なります。 同じ機械でもどんなレンズを通してどんな仕組みで写すのか、それで物事の見え方はこんなにも変わるのかと思いました。 東影美紀子作「かけらあつめ 009」 物事の見え方に関して。 同じ物でも環境が変われば見え方も変わると思いますが、上述のカメラの話のように環境が全く同じでも見る者のコンディションが変われば見え方は変わると思います。 人は常に「その時の自分」というレンズを通して外界の物を見ているのではないでしょうか。 「悲しんでいる自分」を通して外を見ればいつも見ている物や風景もどこか鬱々と映るかもしれませんし、逆に自分を励ましてくれているかのように見えるかもしれません。 自分にとって外界にある物は、自分が「見て」初めて自分にとってそれは存在することになると思います。(自分が一生それを見ないままだとその存在は自分にとって「無い」ことと等しいと思うのです。) 大学の頃の恩師は「見る」から「在る」とおっしゃっていましたが、そうである以上物の存在とは見る者によって恣意的に意味付けられていくのかもしれません。 ひとつのリンゴをAさんとBさんが見たとして、Aさんはリンゴに素敵な思い出があるのならそのリンゴも肯定的に目に映るかもしれません。逆にBさんはリンゴに嫌な思い出があったとしたらそのリンゴも否定的に見えるかもしれません。 このように普遍的に見ればリンゴはただひとつの物として存在しているだけでも、見る者によってその存在の意味は変わります。 ひとつの物には人の数だけ在り様があると思うのです。 東影美紀子作「交信『塔』」 そういう風に人は物を見ていると考える中で、美術作品を見ることもその例外ではないでしょう。 ひとつの同じ作品を見るにしても、その作品