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絵の役割。

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  こんにちは。いよいよ夏が始まりましたね。 空がすっかりサマー!という感じで青いです。 ラムネが恋しくなります。 * 「絵なんて何の役にも立たない。」 私たちが画廊を開こうとした矢先、こんな言葉を投げられたことがありました。 「絵は何の役にも立たないから、そんなものを売るなんて真っ当な商売じゃない。」 オープン1週間前くらいにそんなことを伝えられて、結構凹んだ記憶があります。 今となっては懐かしいなぁくらいに立ち直ったのでこうして書くこともできるようになりましたが、今でもふと思い出してはぐるぐる考えることがあります。 私自身、絵というものは人が生きる上で誰に対してもわかりやすい役割は持っていないと思います。 絵自体、というよりは「絵を家に飾ること」という行為は確かに人間が生命を維持する上では物理的には不要です。 ですがそれでも何かを飾るという行動はずっと昔から淘汰されることなく現代に残ってきました。 もちろん時代や文化によっては宗教的理由だったり、権力の誇示を目的とした場合もあったでしょう。 では現代において絵を買って飾るとはどんな意味を持つのか。 私は自分で好きな絵を買って飾ること、この行為をまるっと含めて「その人の自己表現」だと考えます。 自分を表現をすることは芸術家の仕事のみではなく、もっと身近なところで多くの人が行っていることだと思います。 例えばアクセサリーや好きな洋服を着て自分を着飾ること。 好きなパンを朝食に食べること。 好きではない色の雑貨は部屋に置かないこと。など。 こういったことも無意識かもしれませんが、自分を表す行動ではないでしょうか。 ここでキーワードになるのは「好き」や「好きでない」という主観に基づいた選択が行われている点です。 この選択はその事象がわかりやすい役割を「持たない」ほどより純粋な自己表現になっていきます。 自分の好きな絵を買って自分の部屋に飾ることは、上記例以上に純粋で根源的な自己表現のひとつだと思うのです。 例えばこれら「好き」の基準で全ての物事が選択できなくなったら世界はどうなるのか。 着れれば良いのだから服にバリエーションは無くなるでしょう。 食べられれば良いのだからパンに味のバリエーションは無くなるでしょう。 使えれば良いのだからたとえ自分が好きではない色味の雑貨でも、それしかなくなるかもしれません。 「芸術作品」は

作田富幸個展を開催するにあたって。

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  作田富幸さんとの出会いは結構前で、知り合ったタイミングで言うのであればもしかしたらご縁のあった作家さんの中で一番古いかもしれません。 初めて作田さんの作品を見た時、当時の私がぐっとハートを掴まれたのをよく覚えています。 その後、紆余曲折を経てまさか自分が画廊を開き、そこで作田さんの作品を扱わせていただくことになるとは本当に夢にも思っていませんでした。 作田さんの作品は苦手な人は苦手かもしれません。 描かれる者は奇怪な形や顔をしたものが多く、その表情も歪んでいたり泣いていたりすることが多いようで、多くの人が想起するような「綺麗な絵」とはある意味で真逆を行くような作品がほとんどです。 人によっては不気味がったり怖がったりしてもおかしくない、そんな作風であることは間違えないでしょう。 もし絵をインテリアとして迎えたいのであれば、少なくとも現代日本社会に暮らす多くの人にとっては、作田さんの絵は積極的に避けられる部類になるかもしれません。 しかし今一度思い出したいこととして、そもそも絵とインテリアはイコールではありません。 もちろんインテリアとしての絵画というものも存在しますが、全ての絵画がインテイリアとして消費されるわけではないでしょう。 作田さんの絵は徹底して「芸術絵画」であろうとしており、インテリアとしての絵画とは程遠い位置に存在する作品ではないかと考えます。 「芸術は心地よくあってはならない。」 この言葉は有名な岡本太郎氏の言葉で、作田さんも大切にされている言葉だそうです。 芸術とはインテリアなどではなく、「綺麗に整ったもの」を作ることだけが目的ではありません。 これは私個人の考えですが、もし才能に秀でた表現者がその表現者自身から生じる物事だけをモチーフに作品を手掛けたとき、その作品は「綺麗に整う」ことが難しくなるのではないでしょうか。 例えば「綺麗な絵」と言って連想するとき、何を思い浮かべますか? 花の絵、鳥の絵、海や空、綺麗な街並み、美しい人… ざっと思いつく形を挙げてみましたが、これらは全て自分の外界に存在する事象の姿です。 多くの「綺麗な絵」を描く作家は自分が見てきた外界の存在や事象の姿を借り、そこに自分を投影して描くことが多いと思います。 (抽象画はまた別になりますが、テーマなどをやはり外界の存在や事象に借りることは少なく無いと思います。) ではもし絵を

無人島サバイバル

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作品 / 「イノセント」 「もしあなたが無人島に流されることになったとして、他に何にも持ってはいけないが、この中のどれか一枚だけ絵を持っていけるとしたら、どれを選びますか?」 先日榎並さんが在廊中に、お客さまへ問いかけた言葉。 お客さまはさっきより真剣に、その一枚を選びはじめた。 ✳︎ 自分ひとり未開の島に残されて、友人どころか人間が誰もいない。 どうやって食料を得るか?虫や動物をさけて安全に眠る場所はあるか? 生存していくために必要な道具も武器も何も持てないが、ただ一枚、絵を持って行けるという。 そんなときに、人はどんな絵を選ぶのだろう。 絵は何にも役に立たない。 食べられないし、乗り物にも、衣服にも、住居にもならない。 外敵から身を守る武器にもならないし、当然お金なんて無い世界だから換金して生活の足しにすることもできない。 むしろサバイバルには邪魔な荷物となるだろう。 それでも絵を、不用なものを、私たちは持っていくだろうか? 不安と孤独。 私なら、それらに支配されると思う。 今日、食べ物を得られないかもしれないという不安。 いつどこで虫や動物に襲われるかわからないという不安。 明日を生きて迎えられるないかもしれないという不安。 そして、孤独、孤独。 人は祈らざるをえないのではないか。 どの宗教のどの神様に、という話ではない。 自然に、あるいは、何か大いなる力に。 残念ながら私はサバイバルに必要な体力も知識も、精神力も持ち合わせていないから、ただただ、弱さ、無力さを痛感し、いっそ死んだ方が楽になれるとも考えるだろう。 それでもほんの少し生にしがみつけるとしたら・・・人は祈らざるをえないのではないか。 現代の社会には、無人島生活みたいな側面があると思う。 不安や孤独は様々に形を変えて染み出てくる。 「祈り」とは、神仏にお願いをする、という意味だけでは、決してないと思う。 もっと日常のなかにあって、それは呼吸をするかのように 大切な人やものごとを想ったり、何かを愛おしいと思うこと。 誰かの、また自分自身の、心からのことばを聴く時に。 そんな生活的なものではないかと私は思う。 絵は、祈りの拠り所だ。 その意味ではイコンや仏像にも似ているかもしれない。 安心できる場所などない世界で、生と死に挟まれて日々を送らねばならぬとき、 誰かがつくった「いのりのかたち」は、そのまま自

ノマド

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作品 / 「漂泊」 開催中の榎並さんの個展も気づけばもうすぐ折り返し。 旅の夜話のような夢のような時間は、あっという間に過ぎ去っていく。 榎並さんの画家としての生き方に憧れる。 日々を暮らしながら絵を描き、その時々の作品たちを携えて、東京、大阪、京都、地元甲府・・・と各地を巡る。 その生き様は、まるで旅芸人のようだ。 絵を描いて暮らすということ。 榎並さんはそれを体現している本職の画家である。 だからその絵には、責任と、ある種のきびしさとがある。 「ノマド」というのは、遊牧民など定住しない人々を指す言葉だ。 榎並さんの絵の主題にも度々登場するし、榎並さん自身のまるでジプシーのような生き様にも、その魂がある。 社会に決められた「安定」や「良い」とされる生き方のレールの乗せられただ「生かされる」だけの人生を捨てて、覚悟と責任とを引き受けることで手にすることのできる“自由”。 そこに見えるのは、肩書きや経歴や、枠組みなどで語ることは決してできない、「榎並さん」という人生そのものの姿だ。 そう、榎並さんは”自分”の人生を生きている。 生きようとしている、と言うべきか。 そして、その“自分”をさらけ出すことで絵を描いている。 榎並さんの絵に惹かれるということは、榎並さんの人生そのものへの憧れかもしれない。 ✳︎ たまには自分たちのことを書いてみよう。 店主夫妻、齢31。 一般的には働き盛り、これから社会的な地位も上がり、将来に向けて堅実にステップを踏んで行こうという時期だろうか。 そんな年頃に、画廊を始めた。 画廊をやっていると、どうもお金持ちだと思われがちだ。余裕のある商売に見えるのだろう。 しかしその実、余裕なんてものはひとかけらも無い。 創業も融資を受けているし、日々の家計はその日暮らしの自転車操業である。 そもそもの出発点もおかしい。 普通なら夢の開業に向けてコツコツ貯めた資金で、計画性をもって船出をするところだろうが、 私たちの出港時には、地図も、僅かな蓄えすらも無かった。 あるのは絵、だけだった。 馬鹿みたいに向こう見ずで、先が見えない生き方だ。 もちろん最初の頃は不安も大きかった。今も無いわけではない。 だが、不思議と心は健やかだ。 「絵を信じて進めばなんとかなるだろう」と思う。 他力本願に聞こえるかもしれないが、そうすることしか出来ないのだから仕方がない。 人

絵を見て何も感じないこと。

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  こんにちは。 現在開催中の榎並和春ドローイング展「いつものように」、厳しいご時世下ではありますがとっても素晴らしい作品ばかりが並んでおります。 ついつい笑顔になってしまうような、でもどこか手を合わせたくなるような、そんな不思議な雰囲気を持つ作品が優しく迎えてくれます。 GWに入りますがもしお近くお立ち寄りならぜひご覧ください。 感染対策をしつつお待ちしております。 * 「絵の見方がわからない」という方々に対して、これまで私は「自分が好きかそうでないかを軸に見ればいいと思いますよ」ということを積極的に伝えてきました。 ですが最近ふっと思ったのが「絵を見て何も感じないこともあるだろう」ということです。 好きかそうでないか以前に、そのどちらも無い、他の鑑賞者は何かを感じているのに見ていて何も自分の中には湧いてこない、そういうことだってあると思うし、現にそんな体験を私自身幾度となくしてきました。 では芸術作品に触れて何も感じないことはダメなことなのか、と考えると私はそれはそれで良いのではないかと思います。 無数にある作品の中で自分に合う合わない、どう頑張っても見ている作品の中に何も見出せない、そういうものと出会うことは自然なことだと思います。 むしろ作られた作品全部に何か特別なものを感じる方が難しいような気がします。人間関係の中で気の合わない人が出てくるように、その絵が物語ることの受け皿が見る側に必ずしもあるなんてことはないからです。 だからきっと街中で他人とすれ違うように無関心でしかいられない絵だってあるでしょう。 それでいいのです。 そういう無関心でしかいられない絵もあることを知って初めて、自然と何か心が動かされる絵との出会いがどれだけ特別なことかを知ることができると思います。 これは私の肌感覚で感じていることなので必ずしも正しいとは限りませんが、「どんな絵でも見た時に何かを感じなければならない」という無言の風潮がある気がしています。 そのため見る側が、時には無理やりにでも、見た絵からその絵の「特別」を探そうとすることもあるのではないかと思うのです。 個人的な意見としては、美術館に並ぶ絵、画廊に並ぶ絵など、見てきた全ての絵から何らかの感動を得なければならないことはないし、その描かれた意味を汲み取ることができなければならないなんてことも無いです。 そうやって身構えずに

浅見哲一さんの絵についての思い事。

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  こんにちは。 ブログはすっかりお久しぶりとなってしましました。 今日は浅見哲一さんの作品について思い事を書いてみようかな、と思います。 現在くじらのほねでは「浅見哲一個展 夜の在り処」を開催中です。 こちらの展覧会、会期が早くもあと1週間で今月23日までとなっております。 くじらのほねの展示は完全に企画展のみで、たまに作家さんの選考基準などを尋ねられることがあります。 「選考基準」なんて書くとなんだか偉そうですが、当画廊ではシンプルに運営している私たちがその作家さんの作品が好きかどうかで判断させていただいております。 贅沢にも、本当に好きになってしまった作家さんのみに展覧会をお願いしている状況です。 というわけで浅見さんの作品も当然「好き」から出発しており、個展を実際に開催する前から別の画廊さんで作品を買ってしまうほど好きでした。 しかしこうして「展覧会」を開催するという形で浅見さんの作品と接し、日々作品に囲まれて過ごしていたら、なんだかゆっくりゆっくりじっくりじっくりと私の中の「好き」の温度が上がっていくのを感じており、「まだまだ好きになれたんだ!」と自分でも少し驚いております。 浅見さんの作品は一見すると地味と思われてしまうかもしれません。 ぱっと見て勢いよく視界の中で主張するような艶やかな色遣いもなければ、誰もが目を引く目立ったモチーフがあるわけでもありません。 ですがじっくりと時間をかけて向き合い、眺めていると、静かにゆっくり心の深いところへと優しく刺さってくるものがあります。 その心に刺さったものが日々大きくなっていくような、まるで種から発芽した植物がゆっくりじっくり上に伸びて育っていくような、そんな柔らかい速度でなんだか「好き」が育っている、日々そんな感覚を抱きながら展覧会会期を過ごしております。 生活の中に絵を飾ることにおいて、もしかしたら浅見さんの絵はある意味でとても飾りやすいのではないかとそんな体験をしながら最近思います。 暮らしの中にすっと溶け込み、じっくりとそこに根を下ろしていくような、そんな力のある絵。 気取らず、手垢にまみれた生活スペースの片隅に不思議と飾れてしまう魅力的な素朴さ、それでいて飾る前とは確実に何か違った空気感を作り出す絵。 こんな絵が描ける人は、一体何人いるのでしょう。 そんな風に絵を眺めていると、浅見哲一という人物は徹底

本当に好きだと思った作品を買うこと。

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  こんにちは。くじらのほねです。 だいぶ暖かい日が増えてまいりました。お散歩ついでに画廊へ立ち寄ってくださる方も今日は多かったです。 当画廊がオープンしてから5ヶ月目に入りました。 誰でも気軽に入れる画廊をずっと目指しておりますが、ありがたいことに普段画廊という場に馴染みのない方や、これまで画廊に入ったことが無かったという方にも扉を開けていただくことが増えてきたように思います。 「ずっとどこか他人事だと思っていた芸術の世界に、自分も入ってみていいんだな、入りたいなと思えました。」 こんな感想を今日はいただき、とても嬉しかったです。 まだまだ絵を家に飾る文化が根付かない日本ですが、自分が「好き」だと思った作品にお金を払って日々眺めて暮らすとはどういうことなのか、色々と考える時があります。 絵をはじめとする芸術作品はわかりやすい役割を持ちません。 食べたり乗ったり着たりという、物的に人に何かを施すことができない存在です。 しかし作品は「物的な役割を持たない」からこそ良いのだと考える時があります。 物的な役割を持たない絵を買う時、多くの人の理由としては「その絵に感動したから」「その絵が好きだから」という場合が多いでしょう。(中には投資の名目やネームバリューで買う人もいますがそれはまた別の話です。) 作品に限らず「不要不急のものだけれど、自分が好きだから買う」というときの買い物というのは、その品に対してだけでなく、自分自身の「感動」だったり「好きという感情」だったりにもその価値を払えるということです。 本当に好きで作品を買うというのは、ある意味で自己肯定でもあるのだと思います。 と同時に自分のスペースに不要不急の存在を置いておける「心的な」余裕のある現れでもあると感じます。 つまり好きな作品を買って飾るとは、自分の「好き」をそれだけ肯定していることになり、それは自分自身という存在への肯定でもあるのではないかと思うのです。 「絵を飾っていると励まされるのです」という方が多い印象を受けますが、そういう方は本当にその絵を気に入られて買ったのだろうな、と感じます。 自分の「好き」が絵に投影され、回りに回って自身を肯定するからなかもしれませんね。 人の「好き」という感情や感動を引き出す、もしかしたらそれが作品を買うということの真価なのかもしれません。 企画画廊くじらのほね 飯田未来